【名字の話題とルーツ巡り】

いい仲間の会の生き字引、ふくろうさん提供


山下

佐藤 安永 中島・中嶋
宮本 北原 白井 伊東・伊藤
福井

 

●福井姓

福井姓の詳しい解説は、いい仲間の会の生き字引、フクロウこと福井さん製作のブログ「マチエール」でご覧下さい。

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●伊東・伊藤姓

伊東姓・伊藤姓のルーツは、大きくわけて次の流れがある。
(1)伊豆国田方郡伊東庄発祥の藤原南家工藤氏の一族の狩野氏に発する河津流。
   多くは伊東と記すが、後世、伊藤と記すものも多い。

(2)藤原秀郷五世孫公清の裔基景が、伊勢に住して伊藤と称した。
   「伊勢の藤原」がつまって「伊藤」と呼ばれた。
   伊東と混同することがある。

(3)ほか相良流、越智流、伊香流をはじめ、全国に大いに広まる。

伊東氏の代表的な家紋は、庵木瓜、丸に折入、九曜。
伊藤氏の代表的な家紋は、藤(上り、下り)、釘抜。
伊東姓で現在人口分布が多いのは、1位が東京都、2位が神奈川県。
人口密度が多いのは1位が大分県、2位が長野県。
伊藤姓で現在人口分布が多いのは、1位が愛知県、2位が東京都。
人口密度が多いのは1位が秋田県、2位が三重県。
伊東・伊藤は、井東、井藤、井遠、伊統、位登、位頭、依藤、夷藤等に通用。

【伊豆の伊東氏】
伊豆の伊東氏は、藤原南家から出た工藤氏の一族の狩野氏が、伊東に入り伊東氏を名乗ったといわれている。伊東氏は、伊東荘・河津荘・宇佐美荘を支配する伊豆東海岸の豪族となっていった。

工藤氏の祖は藤原武智麻呂。一族は甲斐、信濃、伊勢、安房をはじめ全国に広まる。平安時代の中期、藤原南家武智麻呂から数えて九代目為憲(平将門の追討に功のあった常陸介藤原惟幾の子、藤原鎌足から11代目)は、仁寿8年(852年)、木工介(助)を任じられ、「木工の藤原氏」という意味で「工藤氏」を称した。

工藤為憲の孫、工藤維景が平安末期に伊豆の押領使になって下向、その後、駿河守として伊豆国狩野(現在の静岡県伊豆市)に住し、狩野氏の祖となった。

維景が駿河守に任じられた際に狩野城が築城された。東には狩野川、北には柿木川が流れ、この二つの川に挟まれて、狩野城を乗せた山は狩野の地にそびえた。狩野城には幾多の栄華があり、また幾多の悲劇があった。しかしいずれも歴史の闇の中に姿を消してしまった。

狩野(工藤)維景の子の維職は、伊豆国田方郡伊東に居を構え、伊東姓を名乗った。伊東は、現在、天城山系の山々を背後に、明るく開けた相模湾にミカンの実りがよく似合う我が国屈指の温泉郷となっている。

工藤(伊東)維職の孫の家次は、宇佐美から河津に至る東伊豆一帯を支配して、葛見(くずみ)庄と呼んでいた。一族は、伊豆半島一帯を中心に土着して武士化していった。

一族は平安末期から鎌倉時代にかけて、伊東を本拠とする伊東氏、河津を本拠とする河津氏、宇佐美を本拠とする宇佐美氏など、それぞれ本拠の地名を通称とする支族が分かれて行き、源平の戦いの時期には平家側と源氏側に分かれて、お互いに争った。

工藤氏は、多くの系統にわかれ、各地に展開して行く。

工藤(狩野)家次の子に祐家(祐隆)、祐継(祐次)の兄弟がいた。

祐家(祐隆)は、狩野庄から伊東庄に入り、伊東氏を名乗った。その流れのうち、祐家(祐隆)−祐親−祐重(祐泰又は祐通)の系統が、後の河津家につながる伊東氏の家系となり、一方、祐家(祐隆)−祐親−祐清(祐長)の系統が後の仁杉家につながる伊東氏の家系となる。伊東市史では、いくつかの流れの伊東氏(工藤氏)の家系と区別するため、伊東庄をルーツとし仁杉家につながる伊東氏を祐清流伊東氏と呼んでいる。

河津の地は、平安末期には河津庄と呼ばれ、工藤(伊東)家次の所領になったところである。河津は、北東部に天城の山々が幾重にも連なり、そこに源を発する河津川とその支流の上流域周辺に集落が点在する。天城峠から湯ガ野にわたる河津川の渓流をはじめ、天城連山の自然の恵みを受けた温泉郷であり、河津桜の里として有名。河津は、湯ヶ島と河津の間にある天城連山を越える「天城越え」の地であり、目からウロコのネイチャースポットである。

伊東家次(工藤家次)は孫の伊東祐親(工藤祐親)に、この河津庄を譲った。祐親は河津の地にあって河津姓を名乗り、河津氏の祖となった。祐親は河津二郎と称し、子の祐重は河津三郎と称して、河津庄谷津を本拠とした。なお、工藤祐重の名は、吾妻鏡では祐泰と書かれており、曾我物語では祐通と書かれている。

家次の次男で、祐家(祐隆)の弟にあたる祐継(祐次)は、葛見庄(伊東庄)を治めていた。しかし、兄の祐家(祐隆)の子の祐親は河津の地にあったが、もともと伊東の嫡流と考えていたので、祐継(祐次)から葛見庄(伊東庄)を略奪し、伊東と名乗り伊東庄に移った。そして河津庄を子の河津三郎に治めさせた。

なお、「河津掛け」と呼ばれる相撲の一手は、河津三郎が、当時、 連戦連勝で無敵と言われていた俣野景久ととった相撲の手であるといわれている。

葛見庄(伊東庄)を乗っ取られた祐継(祐次)の子に、工藤祐経(祐軽)と工藤祐茂がいた。兄・工藤祐経(伊東祐経)は、工藤祐親(伊東祐親=河津二郎)との領地争いで祐親の子・工藤祐通(伊東祐通=河津三郎)を殺害した。この事件は、のちに「曾我兄弟の仇討ち」の発端となる。

工藤祐経の子・祐時(犬房丸)は「曾我兄弟の仇討ち」の時、まだ9歳であったが、成長して、やはり伊東を名乗っている。

この一族は後世大いに栄え、尾張、伊勢、甲斐、会津、丹波、丹後、紀伊、讃岐、筑前、豊前、肥後など、日本全国に広まっていった。

信濃の北原姓は、この工藤犬房丸の子孫の伊東氏(伊藤氏)の流れを汲む。

伊東氏の同族である宇佐美氏は、頼朝25功臣の1人と言われる宇佐美三郎祐茂から始まる。河津三郎祐通を殺害した工藤祐経の弟・祐茂が、宇佐美姓を名乗り、伊東郷の北隣の宇佐美郷を治めた。

宇佐美郷の現在の地名は伊東市宇佐美。豊富な海と山の幸に恵まれた温暖な気候の町である。この地で発祥した宇佐美氏が、その後全国各地へ散らばっていった宇佐美氏の本家である。

宇佐美氏は、中世を生きのこり、戦国期には越後上杉家の重臣となった。

なお、伊豆の伊東氏は、伊藤を称したものも多いので、混同が起きている。

伊東巳代治は長崎の人で、伊藤博文に見出されて明治憲法の作成者の一人となった。祐経と同族である。歌手の伊東ゆかりは、本名伊東伸子で、東京生まれで小さいときから進駐軍のキャンプなどで歌っていた。やはり祖は藤原氏。

【曾我兄弟の仇討ち】
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、建久4年(1193年)富士山麓に多くの御家人を集め軍事訓練を兼ねて、「富士の巻狩」と呼ばれる大規模な狩猟大会を行った。

その巻狩の最中に、赤穂浪士、荒木又右衛門の鍵屋の辻の仇討ち(伊賀越えの仇討ち)とともに天下三大仇討ちといわれる「曾我兄弟の仇討ち事件」が起こった。この事件は、巻狩に集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与え、その話が語り継がれて、やがて「曾我物語」としてまとめられた。

「曾我物語」によると、伊東領主、伊東祐親(河津二郎)は息子祐通(河津三郎)を伴って狩にでかけた。ところがその狩の帰りに惨劇が起こった。以前から伊東庄の所領をめぐって、伊東祐親と工藤祐経との骨肉の争いが起こっていたが、工藤祐経の家来が河津二郎祐親を目掛けて放った矢が、息子の三郎に当たって三郎は死んでしまう。

河津三郎の死後、祐親は悲嘆にくれる三郎の妻を、幼い2人の子供の十郎・五郎ともども相模の曾我家へ再婚させた。その後、河津二郎祐親は頼朝に討たれるが、工藤祐経は、頼朝の重臣として出世していく。

河津三郎の遺児、十郎五郎の兄弟は、母が再嫁した曾我祐信の姓をとり、曾我姓で呼ばれるようになった。曾我十郎時政(祐成:一萬)と曾我五郎時到(箱王)である。父が殺害された当時、一萬は5歳、箱王3歳であった。子供達は父の仇を討とうと、時をひたすら待ち続けた。そして、苦節18年目にして、ついに、頼朝が催した富士の巻狩の最中に工藤祐経を討ち果たしたのである。

「曾我物語」は、伊豆の流人頼朝の挙兵から、鎌倉政権樹立に至る歴史とないまぜに、事件の経過と兄弟の心情を描き尽している。本懐を遂げた後、兄の十郎はその場で頼朝の家臣仁田四郎忠常に討たれ、弟五郎は捕らえられた。

次の朝、頼朝の前に引き出された五郎時致は、小さい時からの苦心や仇討ちの訳を述べ、最期に「今はただ死を給え」と死を願い出た。これを聞いた頼朝は、兄弟の健気な心に感動し五郎時致を許そうと思った。しかし、頼朝の家臣工藤祐経の子、9歳の犬房丸(いぬぼうまる:後の祐時)は、父親を殺された怒りのあまりに扇子で五郎時致の顔を叩いた。頼朝は犬房丸のこの行為に、「武士として縛られている者を殴るとは何事とか」と怒り、犬房丸を信濃国伊那へ流刑を命じた。

犬房丸は泣きながら、「父の仇、五郎時致の身柄を頂戴したい」と願ったので、頼朝はやむなく五郎時致を犬房丸に渡してやった。

犬房丸に引き渡された五郎時致は、犬房丸の命令で打ち首にされてしまい、わずか20歳の若さで兄十郎祐成の後を追って富士の裾野の露と消えていった。

現在にまで伝わる「曾我物語」はこの事件を題材にしたものである。兄弟の不運な生涯と、その悲劇的な最期が民衆の間に共感を呼び、文学や芸能の分野でも盛んに取上げられ、次第に脚色されてきた。芸能分野では、能や浄瑠璃、歌舞伎などで名高い。

伊那に、以前から小出(小井弖)二吉郷(伊那市)に住み着いていた工藤氏(小出氏)がいた。伊那に流された犬房丸は、この一族から保護された。犬房丸は工藤祐時と名乗って、伊那春近領(はるちかりょう)に領地をもらい、善政を行ったといわれている。

「春近領」とは、鎌倉幕府の将軍家を本所とする関東御領の名称であり、信濃・近江・美濃・上野・越前・肥後などに分布する。名前は、鎌倉幕府の有力在庁が「春近」という名義を使って請負人となって設立した所領であったことに由来する。春近領は、信濃国内には3箇所に分布していた。3箇所とは、近府春近領(松本市)、伊那春近領(伊那市)、奥春近領(長野市)で、その内の伊那春近領が上伊那地域にあった。伊那春近領は現在の伊那市から下伊那郡松川町に及ぶ天竜川沿いの広大な地域だった。

犬房丸は地域民より信頼厚く開田などの農業振興に尽くした。それによって後に鎌倉幕府執権北条泰時に流刑を許された。

【信濃の伊藤氏】
伊東祐親の子で、河津三郎祐泰(祐通)の弟、伊東祐清(祐長)は伊藤九郎と称し、木曾義仲に従い、信濃(諏訪)の伊藤氏の祖となった。祐清の子孫である伊東家(伊藤家)も、全国各地に広まり、江戸時代に備中岡田一万石の大名だった岡田藩伊東家をはじめ、地方の旧家にも多い。

【伊勢の伊藤氏】
この流れの伊藤氏の祖は、藤原秀郷五世孫公清の裔基景である。これが伊勢に住んだ。つまり、「伊勢の藤原氏」から生まれた名字で、佐藤氏と同じく、名門・藤原氏の子孫である。

この子孫には、源平の戦乱に武勇の士を多く出した。悪七兵衛景清、上総介忠清などは殊に知られていた。「源平盛衰記」には、「きょうこの頃はわらべまでも噂をしている上総悪七兵衛景清、われと思わんものは立合え、大将軍と名乗るものは、三浦か佐々木か熊谷か」と景気のいいことを言っている。

徳川家旗本の伊藤家は、伊勢を本国とした家系で、信州松本藩の武田の武将である。

伊勢の伊藤氏の末裔に、明治の元勲伊藤博文がいる。博文は名を俊輔といって長州萩に生まれた。父十蔵は林姓で農業を営んでいたが、のち伊藤姓になる。伊藤弥右衛門の家を継いだためである。

この祖は、伊予の河野氏で、弘安4年(1281年)、蒙古襲来のときに敵船を焼討ちにした河野通有を祖に持っている。実に通有の21世の末孫。

伊藤忠、丸紅のもとである伊藤忠兵衛は、近江の商人で、代々の呉服屋であるが、長崎に行き、反物を仕入れ巨利を得る。屋号を「紅忠」といい、海外貿易で活躍。忠兵衛の三つのモットーは、「女房に惚れよ。仕事に惚れよ。国土に惚れよ」の三惚れ主義。この人の祖も伊勢の伊藤。

【著名人】

伊東 勇   (パルコ社長)
伊藤 英成  (民主党議員)
伊藤 和明  (防災情報機構会長)
伊藤 一彦  (歌人)
伊藤 勝康  (リゾートトラスト社長)
伊藤 周男  (パイオニア社長)
伊藤 完吾  (俳人)
伊藤 キム  (舞踊家)
伊藤 清   (京大名誉教授 解析学)
伊藤 邦雄  (一橋大教授 企業価値分析論)
伊藤 憲一  (日本国際フォーラム理事長)
伊藤 豪   (俳優)
伊藤 浩吉  (日本エネルギー経済研究所常務理事)
伊藤 公象  (美術家 陶彫)
伊藤 公介  (自民党議員)
伊藤 貞夫  (東大名誉教授 西洋史学)
伊藤 修二  (ヤマハ社長)
伊東 四朗  (俳優)
伊東 祐弘  (みずほコーポレート銀行産業調査部長)
伊藤 整一  (海軍中将)
伊藤 大輔  (映画監督)
伊藤 隆敏  (東大教授 国際金融)
伊藤 猛   (長野五輪メダル製作)
伊藤 鉄男  (東京地検特捜部長)
伊藤 哲朗  (警視総監)
伊藤 彦造  (挿絵画家)
伊藤 緋紗子 (翻訳家) 
伊藤 英明  (俳優)
伊藤 秀史  (一橋大大学院教授)
伊藤 圭助  (博物学者)
伊東 玄朴  (医師)
伊藤 左千夫 (歌人、伊藤幸次郎)
伊東 静雄  (詩人)
伊東 深水  (画家)
伊藤 大輔  (映画監督)
伊藤 博文  (第1代内閣総理大臣)
伊藤 正嗣  (カゴメ社長)
伊藤 雅俊  (イトーヨーカドー名誉会長)
伊藤 正視  (伊藤ハム社長)
伊藤 正之  (日本数学コンクール委員会委員長)
伊藤 正行  (三菱東京UFJ銀行CSR推進室長)
伊藤 幹治  (国立民族学博物館名誉教授)
伊東 美咲  (女優・「電車男」など・露出度ダントツの活躍)
伊藤 道雄  (国際協力NGOセンター理事 )
伊藤 光晴  (京大教授)
伊藤 みどり (プロフィギュアスケーター )
伊東 己代治 (政治家)
伊藤 道郎  (舞踏家)
伊東 宗裕  (京都市歴史資料館歴史調査担当)
伊藤 明賢  (俳優)
伊藤 元重  (東大教授 国際経済学)
伊藤 源嗣  (石川島播磨重工業社長)
伊藤 素道  (ミュージシャン )
伊東 康孝  (すかいらーく社長)
伊藤 祐一郎 (鹿児島県知事)
伊藤 雄一郎 (経済ジャーナリスト)
伊藤 雄之助 (俳優)
伊東 ゆかり (歌手)
伊藤 蘭   (女優)


 

●白井姓

日本各地にあるが、現在、愛知県に最も人口が多い。

白井氏は、上野国(こうずけのくに:上州=現在の群馬県)発祥の桓武平氏千葉氏の一族である。

千葉氏流の白井氏には、大きくみて次の二つの流れがある。

1.千葉介常兼の次男・常親の流れ。常親が下総国白井庄(佐倉市周辺)を領して白井を称した。

2.千葉介胤正の八男・胤時が上記の白井氏を継承して白井胤時と称し、白井庄と香取郡白井郷を領した。

ほかに、

安芸国(あきのくに:現在の広島県)の豪族・白井氏と若狭国(わかさのくに:現在の福井県)の豪族・白井氏が有名。

安芸白井氏は、白井胤時の一族が安芸国へ土着したもの。瀬戸内海で勢力を広げ、海賊として著名。安芸国守護・武田氏に仕えた警固衆だったが、のち大内氏に寝返った。戦国時代、大内氏の水軍の最高責任者として活躍した白井

賢胤は安芸白井氏の後裔であった。子孫は萩藩士・津藩士などとなった。

若狭白井氏は、白井胤時の流れを汲む白井胤長の嫡子・白井詮常が、室町幕府三代将軍・足利義満に仕えて功があり「長門守」に任じられ、若狭国にも領地を賜わった。若狭守護・武田氏に仕え、のち織田家→細川氏→藤堂氏と主を変え、津藩士となった。

白井氏のルーツである上野国(上州:群馬県)発祥の千葉氏は、平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、下総国千葉庄(千葉県千葉市)に発生し、中世の房総半島を中心に栄えた大豪族である。

平安時代末期、千葉氏は下総国の在庁官人(国府に勤める役人)で、千葉庄などを治める一領主にすぎなかったが、源頼朝に挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島まで、全国各地に領地を与えられた。平安時代末期から室町時代末期までの約400年間、下総国の大々名として栄えた。千葉県の県名のルーツである。

上州白井、現在の群馬県北群馬郡子持村白井に、白井藩(しろいはん)が存在した。戦国時代、白井は関東管領・山内上杉氏の支配下にあった。

天文20年(1551年)、時の関東管領・上杉憲政が北条氏康に敗れて上杉謙信のもとへ逃亡した後、白井は長尾氏(上杉謙信の一族とは別族)の支配下に入り、長尾氏は北条氏の家臣となった。

居城・白井城は、関東管領を支えた白井長尾氏の城であった。築城は、関東管領である山内上杉氏の重臣であった長尾景仲で、景仲は、白井長尾氏とも呼ばれた。

永禄3年(1560年)以降、白井城は長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣の際の基地の一つとなった。元亀2年(1571年)、武田晴信(信玄)は上州へ侵攻し、武田家武将の信濃の真田幸隆が白井城を侵攻し、白井城は武田の属城となった。

 

天正元年(1573年)、信玄の死後は白井長尾氏は、上杉氏−北条氏−滝川(織田信長属将)氏−北条氏と主を変えた。天正18年(1590年)の小田原征伐で、白井城は前田利家・上杉景勝の攻撃の前に落城し、長尾氏は没落した。

その後、関東に入封した徳川家康は、白井に徳川譜代の本多康重を2万石で入れた。これが白井藩の立藩である。本多康重は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、徳川秀忠軍に属して豊臣方である上田城の真田昌幸と戦い、殿軍を務めた武功を賞されて翌年、三河国岡崎藩に5万石で加増移封された。ちなみに康重は、藩政においては城下町の整備に尽力し、岡崎藩の基礎を固めた。

三河国渥美郡、現在の愛知県豊橋市には白井姓が多い。徳川家康は武田信玄の家臣を多く三河へ移住させたことからも豊橋−長野の関連が伺える。

【絵島生島事件】
千葉介胤正の八男で白井氏を継承した白井胤時の子孫に白井幹時がいる。白井幹時の次女・良は、大坂夏の陣のとき、豊臣秀頼の正室・千姫(徳川秀忠の娘)に従って大坂城を退去し、戦国大名豊島氏の子孫で、武田家に仕えた豊島秀有の子豊島忠次と結婚し、五男をもうけた。長男・豊島平兵衛勝久は、母方の白井姓を名乗り、旗本となった。

その孫娘は江戸城大奥で大年寄として強大な権力を握った絵島である。絵島は、三河国刈谷の生まれとも,江戸生まれともいう。徳川綱豊(後の家宣)の側室お喜世の方(後の月光院)に仕えていた老女で、綱豊が6代将軍家宣として江戸城に入るのに従い、お喜世の方とともに大奥入って御年寄として出仕した。

正徳4年(1714年)正月12日、月光院の名代として寛永寺と増上寺に参詣した帰りに、江戸山村座に生島新五郎の芝居を見物し、徒目付の目に止まって問題となる。この事件が大奥の風紀を正そうとしていた老中の耳に入り、取調べの結果信州高遠藩内藤家にお預けの身となる。生島新五郎は三宅島へ流罪に、さらに絵島の兄にあたる白井平兵衛勝昌は死罪となるなど大疑獄事件になった。

絵島は火打ち平らの囲み屋敷に幽閉され、質素な生活の中で日蓮宗に帰依して精進の日々を送った。絵島は28年を高遠で過ごし、二度と江戸の土を踏むことなく61才で病没した。後に、この事件は絵島と生島新五郎と密通したとされ、芝居などに書かれるようになり有名になった。

【著名人】

白井 権八  (歌舞伎「鈴ヶ森」の鳥取藩士。吉原の遊女小紫との悲恋)
白井 義男  (日本人初のボクシング世界チャンピオン)
白井 晃   (俳優、三谷幸喜作品でおなじみ)
白井 文   (兵庫県尼崎市長)
白井 英治  (競艇選手)
白井 喬二  (作家、著書「新撰組」)
白井 滋郎  (俳優、「赤穂城断絶」「極道の妻たち」 )
白井 貴子  (シンガー・ソングライター、国産女性ロッカーの草分け)
白井 珠希  (タレント、美少女戦士セーラームーン)
白井 鐵造  (宝塚歌劇団の演出家、振付師)
白井 博幸  (サッカー選手。2006年、ベガルタ仙台加入)
白井 松次郎 (松竹創業者)
白井 雄介  (ミュージシャン、バンド「キンモクセイ」のリーダー)
白井 佳夫  (映画評論家)


 

●北原姓

北原姓のルーツは、大きくわけて3流ある。

(1)は信濃更級郡(さらしなごおり)発祥の信濃国人・北原氏
(2)は薩隅(さつぐう:南九州の薩摩・大隅)の北原氏、
(3)は筑肥(ちくひ:北九州の筑前・筑後・肥前・肥後)の北原氏

信濃の族は、
(イ)信濃国更級郡藤沢郷(=高遠)北原邑(きたはらむら:北原村)発祥で、諏訪氏の嫡流である諏訪大社大祝の金刺氏の一族・手塚氏の流れ。

(ロ)同北原邑発祥で、「曾我物語」で知られる工藤犬房丸の子孫の藤原南家・伊藤氏(伊東氏)の流れ。

の2つの流れがある。この信濃の2つは同系のものと思われ、日本全国に分布する北原姓の半数以上は信濃の流れとみてよい。

甲斐武田信玄の信濃攻略により武田家臣に転じた甲斐の北原氏も、出目は信濃の北原邑であり同族。

大祝は、神官の職をいう。「おおほおり」と読み、諏訪明神の現人神(あらひとがみ)として、諏訪社(上社、下社)の頂点に位置していた役職で、上社大祝は「諏訪姓」を、下社大祝は「金刺姓」(かねさし)を名乗った。明治時代を迎え、神官の世襲制度が廃止されたのに伴い大祝職は廃止された。諏訪大社は全国でも生き神様が存在し続けた珍しい神社といわれる。

北原氏は、諏訪下社大祝の金刺(かねさし)氏の一族である。金刺氏は手塚とも称した。諏訪・金刺・手塚・北原の諸氏はいづれも同族であり、惣領は諏訪氏である。平安時代の後期以降、諏訪神社の神主であった諏訪一族は、祭祀のかたわら武力を蓄え武士化していき、神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していった。

北原氏の出目である手塚氏の手塚太郎光盛は、木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は、鎌倉の御家人となり源頼朝に協力した。諏訪は甲斐武田氏の侵攻を受けるが、その口実を与えることになったのは、諏訪一族の内紛によるという。

内紛により社殿などを焼かれ、居城を落とされた下社の大祝・金刺昌春は、甲斐国の武田信虎(武田信玄の父)を頼って落ち延びた。これが信虎に信濃侵攻の口実を与えるところとなり、上社の大祝・諏訪惣領家は武田氏から攻撃を受けることになったのである。

高遠の地は、もともと諏訪上社の領地であったが、金刺昌春が甲斐国に落ち延びた頃、諏訪一族である高遠頼継が統治していた。高遠頼継は諏訪上社の惣領家の地位を狙い、下社の金刺氏と結んで、武田晴信(信玄)の力を借りて惣領家・諏訪氏を攻撃した。天文11年(1542年)、武田氏と高遠氏の両面攻撃にあった諏訪頼重は降伏し、信濃の名族・諏訪本家は滅亡した。

諏訪の城主頼重は甲府に連行され、武田家臣板垣信方の屋敷にとらわれの身となり、自害を迫られた。自害にあたり諏訪頼重は、
 「おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ」
と辞世の句を残し弟と共に自害した。ときに頼重27歳の若さであった。

信玄の軍師・山本勘助は、諏訪を足場として、信濃一円を攻略することを信玄に勧めた。信玄は、上原城を拠点として伊那・筑摩・佐久間・小県への攻略を本格化させると、武田氏対信濃国人との戦いに発展していった。

信州各地に甲州武田の「風林火山」の軍旗が棚引き、信濃は蜂の巣をつついたように大混乱を引き起こしていった。

諏訪惣領家滅亡後、諏訪の地は高遠頼継と武田信玄とが二分したが、それに不満を持った高遠頼継は、諏訪地方を武力で制圧した。結果として武田信玄と対立した。天文14年(1545年)4月に、武田信玄軍が杖突峠を越えて高遠城を取り囲んだ際、勝ち目がない事を悟った高遠頼継は、自ら城を開いて降伏し、高遠氏は滅亡し、諏訪一帯全ては武田信玄の領有に帰した。

武田信玄は、保科氏や北原氏など高遠の遺臣に対しては、知行を安堵するなどの措置をとった。これにより北原氏も、武田氏に従うこととなった。

なお、江戸時代に保科氏が転封になった会津藩には、「高遠以来」という言葉があった。「高遠以来」とは、保科正之の高遠藩主時代から仕え続けた最古参の家柄の事で、ほとんどは武田家の遺臣たちである。 井深、簗瀬、田中、西郷、内原、梶原、北原、小原、三宅の九家は家老職に昇り得る名門とされていた。

甲斐武田信玄の信濃攻略、高遠のその後、保科氏等については、ブログ「マチエール」の【歴史】高遠と高遠城跡http://matiere.at.webry.info/200605/article_1.htmlを参照されたし。

「曾我物語」で知られる工藤犬房丸の子孫の藤原南家・伊藤氏(伊東氏)の流れについては、別途「伊藤姓/伊東姓」を参照。

信濃国伊那郡伊那春近領・小出に伝わる曾我物語「工藤犬房丸」の子孫である。

北原姓の日本国内の分布は、北原姓の人口の25%が長野県に占められており、生粋の長野県人・信濃国人である。また長野県の中でも、北原姓は高遠町に圧倒的に多く、次に多いのがお隣の旧・長谷村である。

右を向いても、左を向いても、北原さんに出会うかもしれない。

薩隅の族は、大隈串良郷に拠る伴姓肝属(きもつき)氏流で、後一条天皇の長元9年(1036年)以来、肝属氏の領地として知られた。建久の頃(1190年〜1198年)、一族の北原又太郎兼延は串良院を領し、鶴亀城に拠った。この支族に日向真幸郷の北原氏があって、南九州一体に栄えている。大族である。

筑肥の族は、肥前淀姫社の文保元年(1317年)、文書に地頭北原太郎の名があり、『大友記』にも「高橋招運家老北原鎮久(伊賀入道鎮久)」のことが出ている。この系統も広まっており、詩人北原白秋(隆吉)は著名である。

そのほか、安芸、阿波にも異流の北原氏がある。北原は、喜多原、北ノ原、北野原等に通用。

【著名人】
北原 覚雄 (農学博士、京都大学教授を経て東大微生物研究所長)
北原 三郎 (理学博士、一橋大学名誉教授)
北原 武夫 (作家)
北原 白秋 (詩人、童謡作家、歌人。福岡県柳川市出身、本名 隆吉、1942年死去)
北原 三枝 (元女優、故石原裕次郎夫人、本名・石原(旧姓荒井)まき子、石原プロ代表取締役)
北原ミレイ (歌手。『ざんげの値打ちもない(1970)』『石狩挽歌(1975)』)
北原 照久 (おもちゃ評論家、鑑定士)
北原 雅樹 (タレント、俳優)
北原亞以子 (作家、『恋忘れ草(1993、直木賞)』)
北原佐和子 (80年代に活躍したテイチクのアイドル)
北原 謙二 (歌手、『若いふたり(1962)』、2005年死去 )
北原 義郎 (俳優、『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス(1967)』)
北原 巖男 (防衛施設庁長官)
北原 治  (長野県駒ヶ根市"養命酒"陸上部監督)
北原 三平 (長野県伊那市高遠町長)
北原千保子 (長野県伊那市高遠町文化財保護委員)


 

●宮本姓

宮は古来から神を祀る神社を表す。宮本は「宮のたもと」、つまり神社のそばという意味から生まれた地名姓なのである。

日本は神社が多いので、宮本姓発祥の地は大変多く、長野県をはじめ全国15の地域が数えられている。
列挙すると次の通りである。

1. 信濃の名族    2. 甲斐東山梨郡の名族     3. 武蔵 戸倉村

4. 安房 宮本村   5. 常陸 鹿島郡        6. 越後 三島郡

7. 三河 又賓飯郡  8. 藤原姓 家紋(丸に矢打違) 9. 近江の名族

10. 紀伊 在田郡  11. 美作国 英多郡 12. 丹波小笠原藩中老

13. 讃岐の豪族   14. 鎮西 小倉  

15. その他(備前、播磨、摂津、伊勢志摩)

ほかに、宮元、宮下、宮坂なども神社にゆかりのある姓である。

代表的なルーツは、信濃の名族・安曇(あづみ)氏のルーツである。長野県の安曇の地、JR穂高駅の近くに「穂高神社」という社殿がある。本宮が長野県安曇野市穂高、奥宮が長野県松本市安曇上高地にある。信濃の宗族・安曇氏が祖神を奉祭してきた古社である。

安曇族は大和国の古代豪族であり、海神(わたつみ)系宗族として北九州で栄えていたが、活動範囲を広げ、その一部が信濃国安曇野に定住し、安曇郡の発展に貢献したといわれている。この安曇氏から出た神官が宮本氏である。

もう一つは、安曇氏の支族である仁科(にしな)氏のルーツである。仁科氏は安曇氏の一支族が、平安時代の終わり頃から仁科の庄を納めた豪族である。土地の名をとって名字としたものと考えられている。

この地に「仁科神明宮」という神社がある。仁科神明宮は、かってこの地域一帯が伊勢神宮の御領としての仁科御厨(みくりや: 神社の神饌料を献納する領地)であった。

神明造の原形式を保存している最古の社殿として国宝に指定されている。場所は、長野県大町市大字社字宮本。JR大糸線「安曇沓掛駅」から高瀬川にかかる宮本橋を渡って徒歩約30分の所である。仁科の庄は、大町周辺の安曇野の地。

県歌「信濃の国」に歌われている「仁科五郎信盛(正しくは盛信)」は、武田信玄の五男で、仁科氏に養子として入った。信玄の死後、盛信は高遠城主となった。

そして、兄武田勝頼の命により天正10年に高遠で織田信長軍と戦い壮烈な討ち死にを遂げ、仁科氏は滅亡、高遠城は信長の手に落ちた。

信長の死後、徳川家康が武田家臣団を保護し、高遠城は、家康に仕えた元武田家臣の保科正俊に与えられた。そして、仁科神明宮は松本藩によって保護された。この仁科神明宮の神官も、宮本氏である。

もう一つのルーツ。剣豪・宮本武蔵がある。

宮本武蔵は、美作国(現・岡山県)英多郡讃甘庄(現・大原町)宮本村発祥の赤松氏族。

江戸時代に小倉藩(福岡県北九州市、藩主・細川忠興)で家老を務めた宮本伊織は、武蔵の一族である。

宮本武蔵は、天正12年(1584年)、現在の岡山県英田郡大原町宮本で生まれた。

武蔵は諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、その間京都一乗寺下がり松での吉岡一門との戦いをはじめ、29才で九州舟島において佐々木小次郎と決闘する間、60数回の勝負も負けたことがなかった。

50才にして兵法を究め、「五輪書」「兵道鏡」「独行道」などを書き上げ、また書・絵・彫刻・工芸等にも「ニ天」と称し、優れた作品を数多く遺して、正保2年(1645年)熊本の千葉城で62才の生涯に幕を閉じた。天才的資質に恵まれた万能の人で現代人が武蔵に学ぶところは多い。

【著名人】

宮本亜門 (舞台演出家)

宮本慎也 (野球選手、ヤクルトスワローズ、アテネ五輪野球チーム主将)

宮本常一 (日本を代表する民俗学者)

宮本恒靖 (サッカー、トルシエJAPANのキャプテン)

宮本輝  (作家、1977年に太宰治賞、1978年に芥川賞)

宮本信子 (女優、ジャズシンガー、夫は故・伊丹十三、「マルサの女」)

宮本文昭 (オーボエ奏者)

宮本真希 (女優)

宮本三喜彦(明治安田生命・取締役会長)

宮本百合子(作家、プロレタリア作家、民主主義文学のリーダー)

宮本耀子 (タレント

宮本隆治 (NHKアナウンサー)

千葉県の富浦に宮本というところがある。現在の地名は千葉県南房総市富浦町宮本。
つい最近までは千葉県安房郡富浦町宮本と言っていたが、2006年3月20日に安房郡富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、和田町が合併し、南房総市となった。その富浦は、隣の館山と並ぶ南房総の観光地である。

富浦は、滝沢馬琴の名作「南総里見八犬伝」に出てくる里見氏が治めていたところでもある。里見氏は、清和源氏の中の河内源氏の流れを汲み、新田氏の一族。江戸時代は安房国館山藩の大名であった。
慶長19年(1614年)9月、里見10代・忠義が改易になり安房を退去するまでの170 年間、富浦は、里見氏の支配下に置かれていた。忠義が死去した時、8人の側近が殉死し「八賢士」と讃えられた。彼らが「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルだという。
宮本の地は、かつては宮本村といわれていたが、明治22年に周辺の村と合併し八束村となり、さらに昭和30年に富浦町と八束村が合併し、新しい富浦町が誕生した。

その富浦に、かつて「宮本城」という城郭があった。今は城跡が残っている。里見氏にとっては安房での重要な拠点となる城だったようだ。場所は現在の南房総市富浦町大津。かつての大津村である。
城は宮本村の北、岡本川の中流域に位置し、里見氏二代の成義が築いた山城である。城が宮本城と呼ばれていたのは、城門が大津村の隣の宮本村にあったからだといわれている。

宮本村は、富浦湾に注ぐ岡本川中流域の河岸段丘とそれを取り巻く丘陵地からなる集落である。地名は、平安時代の昔、62代村上天皇の応和元年(961年)に生稲直重が勧請した宮本天満宮(祭神は素戔鳴尊と日本武尊)に由来するといわれている。

宮本天満宮は、全国天満宮の総本山である福岡の太宰府天満宮と同様に学問の神様・菅原道真が祀られており、宮本神社とも呼ばれている。宮本の地名は里見時代以前の沿革はあまり明確ではないが、由緒ある宮本神社を中心に古くから集落が発達したものと考えられる。ここが、安房・宮本氏の発祥の地である。


 

●中島姓 中嶋姓

全国各地の「中島」という姓のルーツは、地名にある。
中島の「島」の異字体を使用する姓に「中嶋」がある。「中島」も「中嶋」も由来は同じ。
関西では「中嶋」と書くことが多い。

読みは、一般的に「なかじま」と呼ばれるが、九州では「なかしま」と濁らないことが多い。
「豊田」を関東では「とよだ」と読むが、「トヨタ自動車」というように、関西・九州では「とよた」と読み、濁らない。
これと同じである。

以下、「中島」「中嶋」ともに、「中島」と表記する。
鎌倉時代の公式歴史書『吾妻鏡』(国立歴史民俗博物館)によると、庭園の造営において、庭園の中心は四季の美しさを映す「大泉が池」であり、池のほぼ中央部に勾玉状の島を設けることが記されている。この中央部の島を「中島」といった。

中島という姓の由来は明らかではないが、このような池の中の中央の島が由来と考えられる。

また、川の中央の洲(中洲)に出来た村のことを、川の中の島という意味で、「中島」という名前が付いた土地もある。

「中島」姓は、各地で発祥しており、唯一のルーツというものは無い。

岐阜県、愛知県、兵庫県、高知県などが代表的な中島氏発祥の地だとされている。

中島姓の中でも有名なのは、尾張国中島郡(なかしまのこおり:現在の愛知県)発祥の中島氏だ。

『吾妻鏡』にも中島一族の名があり、その歴史は古い。

中島郡は、もともと尾張国の郡であったが、安土・桃山期に木曽川より西側が美濃国に移り、尾張国中島郡と美濃国中島郡に分かれた。

尾張国中島郡は、現在の愛知県一宮市(旧・愛知県尾西市)から愛知県稲沢市(旧・愛知県中島郡を含む)にかけての地域であり、美濃国中島郡は、現在の岐阜県羽島市および岐阜県羽島郡である。

毎年8月に、愛知県一宮市と岐阜県羽島市の共同開催で一宮・羽島市民花火大会が、県境である木曽川で行われる。中島の花火とも言えよう。メインは20号(2尺)玉の打ち上げ。

場所は、木曽川右岸(岐阜県羽島市側)の濃尾大橋の北側。東海道新幹線の岐阜羽島駅または名神高速道路の岐阜羽島インターが便利。

もう一つ。

江戸時代に、代々、相模国(現在の神奈川県)の浦賀奉行所で与力を努めた中島家がある。

黒船が浦賀沖に来航した際に、浦賀奉行所を代表して最初にペリーとの交渉を試みたのは、この与力一族の中島三郎助永胤(ながたね)であった。

応接掛与力として、最初に黒船に乗り込み、ペリーと交渉し船の構造を学んだ。

時は幕末から明治維新。

明治2年5月15日、箱館(現在の北海道函館市)五稜郭での旧幕府軍と新政府軍の戦いにおいて、旧幕府軍は千代ヶ岡台場と五稜郭に立て籠もる状態だった。

中島三郎助を主将とする浦賀隊(中島隊)は、榎本武揚・大鳥圭介らが守る五稜郭の南、千代ヶ岡台場を守っていた。

ここが落ちれば五稜郭は孤立無援となる、という局面であった。

度重なる新政府軍の降伏勧告を拒絶した中島は、大鳥圭介の撤退命令にも従わず、千代が岡陣屋を「この郭は我が墳墓の地なり」と覚悟を固め、徹底抗戦を唱えて新政府軍の総攻撃を迎え撃った。

5月16日、新政府軍の中島隊への攻撃が始まった。

中島隊40数名の守備兵のうち半数以上が討死する激闘の末、中島三郎助は戦死。

中島三郎助は幕府に殉じた。49年の生涯であった。

長男恒太郎(22歳)、次男栄次郎(19歳)らも陣の全員と共に玉砕した。

やがて五稜郭は落ち、榎本武揚・大鳥圭介らは明治政府に降伏し明治政府入りした。

明治8年に榎本武揚・大鳥圭介らよって、中島隊の戦死者を祀った石碑(碧血碑)が建設された。

場所は現在の函館市中島町である。

毎年5月、この碑の前で碑前祭が行われている。

墓は、東浦賀の東林寺にある。

辞世の句「ほととぎす 我も血を吐く 思ひかな」

この戦いで中島家全滅かと思いきや、実はこのとき、乳飲み子だった三男が静岡にいて、この子が後に、横須賀工廠造機部長・呉工廠造機部長・海軍艦政本部第五部長を歴任し、父・三郎助の意思を継いで海軍中将となった中島与曽八だ。

更に、もう一つ。

上州多野郡中島村(現在の群馬県藤岡市中島町)発祥の中島姓が伝承として残っている。こちらは九州薩摩藩主・島津家から出ていると伝えられている。

島津藩が東国の情勢を収集するため、島津の分家として中島家と高津家を設け、中島家を中山道の要衝である烏川河畔渡し場近くに定住させ、中島村の名主としている。

家紋は、島津藩の轡(くつわ:丸に十の字)と同じ。

【著名人】
中島三郎助永胤(浦賀奉行所与力・箱館奉行並・戦死)
中島 みゆき(シンガーソングライター・歌手)
中島 らも (小説家・戯曲家・随筆家・俳優)
中島 沙帆子(漫画家)
中島 徹  (漫画家)
中島 敦  (小説家・詩人・歌人・俳人・エッセイスト)
中島 美嘉 (歌手・女優)
中島 舞  (女優・グラビアタレント・レースクイーン)
中島 望  (格闘技マニア・空手家)
中島 ちあき(歌手)
中島 敦  (小説家)
中島 源太郎(映画プロデューサー・政治家)
中島 知久平(中島飛行機(現・富士重工業)創業者・政治家)
中島 撫山 (儒者)
中島 待乳 (写真師)
中島 洋次郎(政治家)
中島 歌子  (歌人)
中島 力造 (哲学者)
中島 健蔵 (仏文学者)
中嶋 ミチヨ(グラビアアイドル)
中嶋 聡彦 (声優、代表作:機動戦士ガンダム)
中嶋 博行 (ミステリー作家・弁護士)
中嶋 朋子 (テレビドラマ「北の国から」の子役出身の女優)


 

●安永姓

平安時代の天慶4年(941年)頃から、筑前(現在の福岡県)を拠点に九州に勢力をもった鎮西(ちんぜい)の豪族、大蔵氏の一族。

「鎮西」とは、九州の別名であり、奈良時代の天平15年(743年)に、九州統括の府である大宰府(だざいふ)を鎮西府に改称したことによる(天平17年に大宰府に復活)。

 大蔵氏は、後漢霊帝の後裔と言われ、4世紀末の応神天皇の時代に、百済から日本に帰化した阿智使主(あちのおみ)を祖とする。大和朝廷の官物を納めた蔵である大蔵に仕えた漢(あや)氏帰化族の子孫で、のち大宰府の官人として九州に勢力を持った。

 大蔵氏の代々は大宰大監に任じられ、大族で著名な原田・波多江・江上・秋月・原・高橋の六氏と、小金丸・深江・岩門・美気・泉・鞍手・別府・砥上・三原・或水・安永・米生・板井・新宮・新井・桑田・大屋野・北郷・白井・早良・加摩・田尻・亀崎・海頭・桑原・湯江・木原・天草・長島・山口・本砥・亀川・城戸・田中・直塚・枝吉・川瀬・沢野・久良木などの支族を輩出している。

 大蔵一門は、鎌倉幕府成立後も北九州各地に根強く残った。秀吉の九州征伐では、薩摩(現・鹿児島県)の島津氏に属して豊臣勢に抵抗したが、秋月種長の時に降伏し、日向財部(のちの高鍋:現・宮崎県児湯郡高鍋町)に移封され、関ケ原の戦いでははじめ石田方に属したが、のち徳川方に転じ、本領を安堵された。子孫相次いで高鍋藩主となり、明治維新に及んだ。

 安永氏の出自は大蔵宿禰。肥後国(現・熊本県)安永勅旨庄より起こる。氏祖は安永種永である。 安永姓は、肥後(熊本県)・日向(宮崎県)・豊前(福岡県)、筑前(福岡県)など九州各地に分布していた。現在では福岡県に集中してみられ、特に福岡県鞍手郡若宮町(現・福岡県宮若市)では最多姓となっている。

 家紋は地紙紋。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/zigami.html

【福岡県宮若市】

 福岡県宮若市は、平成18年2月11日に福岡県鞍手郡若宮町と同・宮田町が合併してできた市である。 九州自動車道の若宮インターチェンジが便利。

 宮田町では、石炭産業の衰退後、雇用の確保とまちの活性化を図るため、企業誘致に努め、自動車産業やIC 産業などの企業が立地し、工業を中心としたまちづくりに取り組んできた。一方、若宮町では、農業 を基幹産業としながら、近年の余暇時間の増大や自然指向、健康指向などに対 応し、豊かな自然資源を背景とした脇田温泉や産地直売などの観光産業にも力を入れ、農業と観光を中心 としたまちづくりを進めてきた。

 新市の誕生を契機とした新たな時代に対応したまちづくりに取り組むことを目指している。

 秋になると、若宮の各地でぶどう狩りを楽しむことができ、甘くて美味しい巨峰をちぎって味わえる。近くには、100本の句碑が立つ俳句の道や、ゆったりくつろげる脇田温泉もあり、ぶどう狩りの帰りに立ち寄ってみるのもよい。

【著名人】 

 安永 亜衣    (女優)
 安永 航一郎   (スネ毛と変態を描かせたら日本一の漫画家)
 安永 沙都子   (声優、故人)
 安永 義郎    (映画プロデューサー)

【まるで違うが・・・】

 江戸時代に「安永」という元号の期間があった。「あんえい」と読む。明和の後、天明の前。 1772年から1780年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。


 

●佐藤姓

人口200万人以上、日本で一番多い姓「佐藤」は、1972年の発表では 「鈴木」に次ぐ2位だったが、コンピュータによる正確な調査が可能になり、 一躍首位に躍り出た。全国各地にまんべんなく存在する名字だが、 とりわけ東北地方、なかでも秋田県・山形県に比較的多い。 西日本では、広島・徳島・大分の3県に多い。

 佐藤姓は、日本の名門筆頭氏族である藤原氏の末裔(まつえい:末の血統) である。佐藤のほか、伊藤、斎藤、後藤、加藤など「藤」のつく姓は、みな 藤原氏の末裔である。

 藤原姓は、645年の大化の改新の後、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が 天智天皇から賜った姓で、中臣鎌足は藤原鎌足と名を改め、名門藤原家が 誕生する。

 佐藤姓のルーツは、1000年以上も前にさかのぼる。平安時代中期、藤原家 の藤原秀郷(ひでさと)が平将門(たいらのまさかど)を討って東国一帯を 支配した。彼は下野国佐野(現在の栃木県佐野市)に居を構えたことから、 「佐野の藤原」殿、略して「佐藤」殿と呼ばれるようになった。

 さらに秀郷の息子・藤原公清(きみきよ)が左衛門尉(さえもんのじょう) に任じられ、その名が世襲され左衛門尉の「左(=佐)」と、藤原の「藤」で「佐藤」という名字になったという説もある。なお、“左”が“佐”に転化した 経緯は不明。

 衛門というのは、律令国家体制の官司名の一つで、宮廷を警護し、諸門の 警衛出入を監督し、行幸に供奉する職掌であった。左右に分かれて左衛門・ 右衛門があり、長官を衛門督といった。左衛門尉は、そのうちの左衛門の 役人のことをいう。

 こうした流れの中、佐藤姓を名乗る藤原一族が東日本各地に移り住み、 やがて全国各地へと散らばっていくこととなったようだ。

 佐藤家の主な家紋は、「上がり藤(上り藤)」と「源氏車」。
紋様は、こちらのサイト。http://www.jedi.co.jp/sekizai/kamon/kamon.html

 佐藤ばかりが「サトウ」ではない。「左藤」「佐当」「作藤」、南国には、 「砂糖」の姓も存在する。

【著名人】 
 サトウ サンペイ (漫画家)
 サトウ ハチロー (詩人、童謡作詞家)
 さとう 宗幸   (歌手)
 佐藤 愛子    (アイドル)
 佐藤 愛子    (作家)
 佐藤 愛子    (ピアニスト)
 佐藤 愛子    (柔道選手)
 佐藤 重喜    (文化放送社長)
 佐藤 秀樹    (セガ社長)
 佐藤 義清    (平安期の歌人・西行法師の本名)
 佐藤 博     (あなたの近所の秋葉原♪〜サトームセン先代社長)
 佐藤 誠一    (小象マークのサトちゃん製薬'佐藤製薬'社長)
 佐藤 春夫    (小説家、詩人)
 佐藤 純彌    (映画監督)
 佐藤 嘉洋    (キックボクシング選手)
 佐藤 浩市    (俳優、父親は俳優の三國連太郎)
 佐藤 友美    (女優)
 佐藤 オリエ   (女優)
 佐藤 江梨子   (タレント、Fカップの魅力、通称・サトエリ)
 佐藤 治彦    (経済評論家、作家、俳優)
 佐藤 琢磨    (F1ドライバー)
 佐藤 尚武    (太平洋戦争時、日ソ開戦の際の外交官、駐ソ連大使) 
 佐藤 ゆかり   (衆議院議員'小泉チルドレン'の一人、エコノミスト)
 佐藤 栄佐久   (福島県知事)
 佐藤 栄作    (元総理大臣、同じく元総理・岸信介の実弟)
 佐藤 B作    (俳優、本名:佐藤 俊夫)


 

●山下姓

地名は文字通り「山の下、たもと」の意味で、山麓に多い名字である。名字のルーツは、そういった地形の土地で生まれたもの。
 名前の分布は、四国から九州にかけてほとんどの県でベスト20入り
しており、九州地方に特に多い。
 室町時代に岐阜県の名族として知られていた「美濃の山下氏」や、長野県木曽郡発祥の「信濃の山下氏」などがいる。源氏の末裔である木曾氏の支流という逸話もある。

【美濃の山下氏】室町時代の名族で、三河国額田郡保久城主

【信濃の山下氏】源氏の名門・清和源氏の流れを汲む。
  三河の豪族で、信濃国奥郡(西筑摩郡)山下郷より起こる。
  木曽義仲の後胤 小市丸義綱を祖とする。
  家紋は、井筒、三頭左巴、丸に二引龍、丸に雪根篠、二引釘貫。
  子孫は、寛政系譜に
  「綱勝−正綱(松平清康家臣)−綱義−綱次、弟 一勝−周勝−信濃守昌勝」とある。

【著名人】 山下 清(画家)
       山下 泰裕(ロス五輪柔道金メダリスト)
       山下 太郎(アラビア石油創業者、別名:アラビア太郎)
       山下 洋輔(ジャズピアニスト)
       山下 奉文(昭和の陸軍大将、別名:マレーの虎)
       山下 達郎(シンガーソングライター)
       山下 美穂子(日テレ女子アナ、